神はどこにいるか?
これが、秘教修行者の魂の前に立てられた問いであった。
神は存在しないが、自然は存在する。
神は自然の中に見出されるはずだ。
神は自分の魔法の墓を自然の中に置いたのであった。
秘教修行者は、神は愛なり、という言葉をより高次の意味で理解する。
なぜなら、神は愛を極限まで実践したからである。
神は無限の愛をもって自己を捧げ、自己を流出させ、
自己を粉々に砕いて自然界の多様な事物と化した。
これらの事物は生きているが、神はこれらの物の中で生きているのではない。
神は物事の中で休息している。
神は人間の中でこそ生きているのだ。
だから人間は神の生命を自らの内部に感得することができる。
人間が神を認識しようとするなら、
人間は神についての認識を創造的に救出せねばならないのである。


シュタイナーの聖書解釈
(金色はシュタイナーの訳青色は一般的な共同訳

マタイによる福音書(山上の垂訓の抜粋)
幸いなるかな、霊を求める乞食たち、彼らはみずからの内に天国を見出すであろう。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
「もはや古い見霊能力によって、霊を豊かに持つものだけが幸いなのではない。
なぜなら、キリストによる道が開かれた今、
天国がまさにその者たちの自我の中に働きかけてくるからである。」
「苦悩をする人びとは、自分を抜け出して霊界と結びつくことによって慰めを得るだけでなく、
世界と結びつくことによって、みずからの中に慰めを見出すことができる。
なぜなら、新しい力がキリストを通してエーテル体の中にもたらされたのだから。」
みずからの自我の力によって柔和であるものは幸いである。
彼らは地上の王国を体験する者たちである。

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
霊我を最初の霊的部分として、自分の中に取り入れる人は幸いである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
正義のために迫害される人たちは幸いである。
彼らはみずからの内に天国を見出すであろう。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

ルカによる福音書(16章8節)
主人は、この不正な管財人の抜け目のないやり方をほめた。
この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らより賢くふるまっている。

この世の子らは光の子らよりも、そのやり方において利口である。

マルコによる福音書(10章29節)
この言葉は、通俗的な意味にとって、家族から逃げ出すという教えではない。
あなたがたの誰でも、個別自我なのだ。そして、この個別自我は宇宙を貫いて
流れる霊的な父と直接ひとつに結ばれている。このことを感じなければならない。
はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者

ヨハネによる福音書(13章18節)
わたしのパンを食べている者が、私を足で踏みつける。(シュタイナー訳)
わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった。(新共同訳)
人間は、地上のパンを食べ、足でこの地上を歩き廻ります。
地球が、地球霊の体、つまりキリストの体であるなら、人間はキリストのパンを食べ、
足で地球の体を、つまりキリストの体をで足で踏みつけているのです。
キリストはこのことをこれは私の体である。(マルコ4章22節)と語っています。
そしてぶどうの液汁は、人体を流れる血と同じです。
そしてキリストはそのことを、
これはわたしの血である。(マルコ4章24節)と語っています。

ヨハネによる福音書(19章25節)
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
十字架のそばに立っているのは、イエスの母と、彼女の姉妹で、クロパの妻であるマリア、そして、マグダラのマリアだった。と記されているのです。姉妹が二人ともマリアという名であるはずがない、と思うでしょう。
ヨハネ福音書の著者は、イエスの母の姉妹をマリアと呼んでいますので、イエスの母がマリアでなかったことは、明らかです。ギリシャ語の原典でも、はっきりと、下に立っていたのは、「彼の母と、彼の母の姉妹で、クレパの妻だったマリアとマグダラのマリア」と記されています。
ここから、「イエスの母はいったい誰なのか?」という問いが生じます。

ルカによる福音書(1章35節)
聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は、聖なる者、神の子と呼ばれる。
ルカの福音書でも、イエスの父は聖霊である。